読書感想ブログ「一匹の犬になれ」

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安部公房『壁』第一部「S・カルマ氏の犯罪」の感想

 

※ネタバレにご注意ください。

 

安部公房

安部公房は世界に代表する日本人作家と言っていいだろう。国外での評価が高い作家の1人だ。少し前、生前安部公房ノーベル文学賞候補と目されていたことが報道された。村上春樹がそうであるように、一定以上国外で評価されないと当然ノーベル文学賞候補にはならない。実際にノーベル文学賞を受賞した川端康成大江健三郎も実際そうだった。そんなノーベル賞作家大江健三郎は、安部公房の小説から強い影響を受けたらしい。影響を受けただけに、安部が得意とした世界とはまた異なったものを描き出そうとした、と大江は語っている。それもひとつの要因となって、大江のあの、読んでいて臭いがしてきそうな初期の小説 (「死者の奢り」「人間の羊」など) が生み出されたのだろうと思う。

安部公房の小説からは、大江健三郎の小説ような臭いはしない。それから川端康成の小説の、たとえば「伊豆の踊子」「眠れる美女」に見られるような、いやらしさとも言える情緒的な色気もない。安部公房は、ノーベル文学賞の2人とはまったく別タイプの作家である。

安部公房にある一般的イメージは、『砂の女』や『箱男』、『燃えつきた地図』のような「不思議な世界を (都市空間に) 描くこと」つまり寓話的な小説の書き手というイメージだろう。安部公房の著作で『砂の女』『箱男』を読んだ、もしくは知っているという人は多いと思うし、安部公房のイメージも大体その二作 (巨大なアリジゴクの巣に落ちた昆虫学者の話、段ボールを被って都市に生きる人間の話) から生まれている。多分。

『壁』や『燃えつきた地図』は、その二作に次いで読まれている印象がある。

 

「S・カルマ氏の犯罪」

ここでは、第一部「S・カルマ氏の犯罪」を中心に取り上げていこうと思う。安部公房が『壁』で芥川賞を受賞したとき、その題名は「壁―S・カルマ氏の犯罪」だった。受賞したときにはまだ「S・カルマ氏の犯罪」の部分しか無かったのである。第二部「バベルの塔の狸」と第三部「赤い繭」は、受賞後に加筆されたものをまとめて編纂したもので、それらが合わさって『壁』は現在知られている形になる。

 

 

名刺

目 を覚ましました。

「S・カルマ氏の犯罪」は名前に逃げられた男の話である。主人公「ぼく」は朝起きると、自分が名前を忘れていることに気が付いて動揺する。「ぼく」が名前を忘れたのは、都市生活において名前を象徴する存在の「名刺」に反逆されて、逃げられてしまったからである。名前を失った「ぼく」が会社に出勤すると、「ぼく」の名前を奪った「名刺」が「ぼく」のフリをして仕事をしている。「ぼく」に「名刺」は片方の目で見ると空中浮遊する名刺だが、もう片方の目で見ると「ぼく」そっくりの男に見える。その不思議な「名刺」に「S・カルマ」という名前を奪われたことにより、「ぼく」は会社での居場所を失う。

「名刺」に意志があることもあることながら、その「名刺」に裏切られて、その結果名前を失ってしまうというのが非常に滑稽である。この、「名刺」に意志がありしかも裏切られるなんて滑稽だ、という人間側の印象が、おそらく「S・カルマ氏の犯罪」に描かれる物質たちの「闘争」につながっている。

 

裁判

「名刺」に名前を奪われたことは、「ぼく」に様々な弊害を生み出す。名前がない、それは上記のように労働者として居場所を失うことを意味し、飲食店や病院といった都市生活な営みから拒絶される可能性を示している。そもそも名前がないことそれ自体が、普段見えている世界を一遍させてしまう。名前の喪失が、人間生活上で、たとえばある種の視覚的な異常をきたす。「S・カルマ氏の犯罪」では、それに輪をかけて奇妙な世界が広がる。ルイス・キャロルは穴に落ちて理不尽な目にあう少女を描いたが、その構図で言えば、安部公房は名前を失って理不尽な目にあう男を「S・カルマ氏の犯罪」で描いている。

名前を失った「ぼく」は、目に異常を抱える。

 

「おやすいことです。最初の犯行のとき、被告が私とドクトルに自白したごとく、被告は何か対象物をじっと見詰めていると自然にそれを眼から吸取ってしまう性質をもっているのです。」

 

図らずも、「ぼく」は自分の目そして空っぽの胸に宿った「恐ろしい陰圧」によって、雑誌の口絵を自らの体内に吸い込んでしまい、動物園のラクダも盗み取ってしまいそうになる。そのことがきっかけで「ぼく」は奇妙な裁判にかけかれてしまう。雑誌の口絵とラクダの窃盗 (未遂) した罪で「ぼく」は「グリーンのそろいの背広」を着た男たちに捕まり、動物園の地下で「ぼく」の裁判がはじまる。グリーンの背広を着た五人の男たちは、それぞれ法学者と哲学者、それから数学者で、彼らは「ぼく」の罪についてそれぞれの知見を示す。

この裁判も滑稽で、たとえば同僚の「Y子」が証言した「ぼく」の名前「カルマ」について、辞書で調べて「サンスクリットで罪業という意味」であるから「ぼく」は有罪だと、グリーンの背広の男たちは真面目に言うのである。明らかに理不尽だが、「ぼく」にかけられた理不尽な犯罪はそれにとどまらない。

「ぼく」が街中で出会うマネキンは、「ぼく」の罪について次のように述べている。

 

「ありますとも。全部委員たちが兼ねているのです。で、その論告によれば、歴史に記載されたすべての事件犯罪、ならびに現在行われているすべての裁判があなたに関係し、あなたの責任であるというのです。なぜなら、そのどれにもあなたの名前が記載されていない。」「そんな無茶な!」

 

「つまり、単に監視のきびしいばかりでなく、あなたにとってこの裁判が不利なのは、その期間中、言いかえれば永久にあなたには法律の保護がないという点です。なにしろ人権というのも、つまりは名前に関するものですからね。 (略) 」

 

これが名前の無い「ぼく」にかけられた「犯罪」である。名前に逃げられた男は、名前が無いことによって罪には問われない。しかし、名前が無いことが裁判を無限大に延長させ、「ぼく」の罪状も無限大に増えていく。「ぼく」は被告人である。被告人は罪が決定する前の存在であり、判決がでるまで無罪が保障されている身分だが、名前がない→判決が出ないことは、「ぼく」が永遠に被告人なことを意味している。

そして、「人権というのも、つまりは名前に関するもの」というマネキンの発言は、名前の無い「ぼく」に諸々の保障がないことを明らかにしている。「歴史に記載されたすべての事件犯罪、ならびに現在行われているすべての裁判があなたに関係し、あなたの責任である」とは、「ぼく」の被告人という立場の永久性を表している。終わらない被告人としての立場、被告人として罪を追究されるその連続性・反復性である。この場合において、「ぼく」の問われる罪が一であろうと無限大であろうと、結局は同じことになってしまう。

これは凄まじいまでの理不尽である。それだけに余計滑稽で、「S・カルマ氏の犯罪」の面白さとなっている。

 

闘争

そもそも、どうして「名刺」は「ぼく」に反逆して逃げて行ったのか。それに関連したことで言えば、『壁』において、どうして名前を喪失する契機が「名刺」でなければならないのか。そのことで重要なってくるのが「名刺」が物質であるということと、「闘争」などの用語である。

安部公房は初期のころ、マルクス主義者や共産党系といった左派の文学者と近しかった。そのためか、とくに初期の安部公房の小説には唯物論などの思想が反映されているとされる (後期になるにつれ、そうした思想性は薄まっていく傾向があるとも聞く) 。

 

死んだ有機物から 生きている無機物へ!

 

「そうだ、おれたち物質は堕落した。」

 

「ぼく」に離反した物質は「名刺」だけではない。上着や靴、ネクタイ、帽子、万年筆、手帳もまた意志を持って「ぼく」に反逆し、「ぼく」にたいして「闘争」を挑み「革命」しようとする (意志を持っているのが身に着けるもの、そしてマネキンに統一されているのが面白い) 。このように、出てくる用語が明らかにマルクス主義に関係している。「名刺」が「ぼく」から名前を奪って初めにしたのが、「ぼく」の会社での居場所を奪うことだったのも、それが下の階級として虐げられている物質たちの、人間にたいする労働的な闘争、革命であったからだと思われる。

物質たち以外にも、おそらくはマルクス主義、唯物史観を反映していると思われる文章が「S・カルマ氏の犯罪」には出てくる。たとえばドクトルの次のようなセリフ。

 

いや、書かなくていい。われわれ医学者は非科学的な事実を許容するわけにはいかん。

 

とはいっても、「S・カルマ氏の犯罪」は当然プロテスタント小説ではないし、単純に作者の思想性を反映しているだけとも言い難いものがある。その小説に思想性があることと、思想性がその小説の本懐であるかはまた別の話だ。

個人的な印象としては、草野心平の第一詩集『第百階級』を連想した。『第百階級』はほとんどすべて蛙を歌った詩集で、タイトルの「第百階級」とは蛙のことである。ブルジョアプロテスタントなどの、通常の階級闘争のイメージには含まれない、それ以下の矮小な存在、どん底の階級にいる存在としての蛙を草野心平アナーキーに表現したものだ。「S・カルマ氏の犯罪」に出てくる「名刺」などの物質も、資産家と労働者という通常の階級認識には含まれない、それ以下の矮小な存在として処理されている。階級に物質が入ることは通常無い。

そして、安部公房が『壁』を書いた時期は、日本が急速な経済成長をし経済成長に比例するように物質消費していった時代であった。おそらく、そうした時代背景的なものも相まって、安部公房は人間に反逆し、闘争する物質を描いたのだと思う。

 

「S・カルマ氏の犯罪」は、名前に逃げられた男が「壁」になってしまう顛末を描いている。名前を失い、そして永遠に終わらない裁判によって「すべての事件犯罪」の罪状をかせられた「ぼく」は、マネキンの提案に従って「世界の果」への逃亡を図る。「世界の果」に辿りついた「ぼく」の目はそこで「壁」を見る。「恐ろしい陰圧」という性質を持つ「ぼく」の目は「壁」を吸収し同一化するが、その際、「ぼく」は「壁」と同一化していく自分自身のことを「彼」と呼ぶ。「壁」と同一化したとき、「ぼく」はもはや名前の無い「ぼく」という存在ですらないもの、すなわち「彼」になる。壁となっていく男は、「彼」と「壁」が同一化していく過程を主観とも客観ともつかぬ風に描写していく。

「彼」は「壁」を見つめながら歌を読む。

 

壁よ

私はおまえの偉大ないとなみを頌める。

人間を生むために人間から生れ

人間から生れるために人間を生み

おまえは自然から人間を解き放った

私はおまえを呼ぶ

人下の仮設 (ヒポテーゼ) と

 

「世界の果」で見る曠野は、おそらく「ぼく」の目が病院で見て、胸の中に吸い取った雑誌の曠野の口絵だろう。「S・カルマ氏の犯罪」では、「世界の果」はとても身近なものだと説明される。「ぼく」の向かった「世界の果」とは、「ぼく」自身の胸に巣食う曠野である。「壁」はそこで生まれる。

新潮文庫で解説を書いている佐々木基一は、曠野と「壁」が同一の素材で形成されたものと分析している。目をさえぎるもののないだたっぴろい曠野と、目に見えるものすべてをさえぎる「壁」が同一であること。安部公房一流の、人間の精神と存在、そして物質に関する奇妙な解剖が、「S・カルマ氏の犯罪」には描かれている。

 

まだ『壁』を読んでいない方へ

読んだ時の感動そのままを感想に書けたらと思うが、なかなか読書感想というのは難しい。小説を相手にするのはそれだけ厄介で、雲をつかもうと必死になったら、何か得体のしれないものをつかまされたような感覚がある。

とにかく、『壁』未読の方はぜひとも読んでほしい。とてもいい読書体験になると、わたし自身は思っている。

 

 

壁 (新潮文庫)

壁 (新潮文庫)