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〈人殺しを容認できるか〉 西尾維新『クビシメロマンチスト』の感想

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識』読みました。前作『クビキリサイクル』は講談社ノベルス版で買ったので、せっかくだから講談社ノベルスで統一……どうせ全部中古であるだろうし……と思っていたら、講談社ノベルス版『クビシメロマンチスト』が見つからない!

 

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

 

 

Amazonで買おうかとも思いましたが、けっきょく文庫買って読みました。一応、まだ探してはいるので、関東圏で講談社ノベルス版『クビシメロマンチスト』を見たという人がいたらご一報 (?) ください。

 

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

 

 

レビューなどの前評判・情報を見ないで買ったので、『クビシメロマンチシト』が「西尾維新の最高傑作」「戯言シリーズで一番おもしろい」と称賛されていることを読了後に知りました。びっくり。それにしても最高傑作ですか。西尾維新に限らず、どの作家でも最高傑作がどれかって意見がわかれるところですよね。

西尾維新読者が最高傑作候補に掲げる『クビシメロマンチスト』。前作から引き続き作品の舞台は京都です。もっとも前作は「鴉の濡れ羽島」という、所在地が京都なだけの孤島が舞台だったので京都感はゼロでしたが。今回は京都の中央に舞台を移して「ぼく」が事件にまきこまれていきます。修学旅行の一回きりしか京都に行っていない身分としては、『クビシメロマンチスト』をちょっとした観光小説にして読んでいました。観光小説にして読むのはけっこうおもしろいと思っていて、だから作品文体の街並みの風景描写は気になるところです。

 

以下、ネタバレになるかもしれないのでご注意ください。

 

 

 

「なあ、零崎」

と僕は訊いた。

「人を殺すって、どんな感じだ」(『クビシメロマンチスト』、178ページ)

 

京都以外にも、前作から引き続き出てくる要素はいくつもあります。たとえば〈人殺しを容認できるか〉という問いかけは『クビキリサイクル』でも出てきて、今回はそれがよりクローズアップされ反復的に登場している気がしました。探偵小説だと、主人公や探偵がその人 (犯人) を殺人鬼とは知らないで応答していることがままあり、それが真相を知った後の再読時に、面白味となるんでしょう。常人のふりをしている人間との会話。その人物がどんな風にとぼけているのか、狂っているのか。一方で『クビシメロマンチスト』ははじめから殺人鬼であるとわかっている人物と「ぼく」は応答します。副題にも名前が出ている連続殺人犯「零崎人識 (ゼロサキヒトシキ) 」です。

わたしの苗字はちょっと変わっているんですが、「零崎」なんて言うほど変な苗字じゃないですしインパクトもないです。下手に変な苗字というのは不便なだけです。かっこいいものばかりじゃないですし。間違って呼ばれますし。その点、全国の「零崎」さんはどう思っているんですかね。この世界で「零崎」さんは変人 (犯罪者?) 集団みたいなのでそんなことは気にしていないかもしれませんが。

 

まずいよ。とびっきりタチが悪い。たとえば《お前は零崎みたいだ》って言われることは、あたしらにとって最大の屈辱に値する。(『クビシメロマンチスト』、279ページ)

 

京都連続通り魔事件の犯人である零崎人識と、「ぼく」は仲良く (?) なります。このふたり、出会った直後から何らかのシンパシーを共有しているようです。はじめて零崎人識と対峙したとき、「ぼく」は零崎を見て「そこに鏡があった」と思い、零崎は「ぼく」のことを「そっくりさん」と呼びます (76、81ページ) 。小説ひいては物語には時折、主人公とよく似た人物が登場することがあります。その関係性はたとえば〈双子〉〈鏡〉〈コインの裏側 (表側) 〉〈光と影〉などといった風に表現され、主人公のあった〈かもしれない〉姿を持った人物として登場したり、主人公にたいしてテーゼ、アンチテーゼを提示する存在であったりします。

探偵小説の場合、それは探偵と犯人の関係性でよくあるパターンな気がします。漫画ですが『金田一少年の事件簿』の主人公で探偵「金田一一」と、宿敵である犯罪者「高遠遙一」の関係性では、それが露骨に強調されています。

ただ、「ぼく」と零崎人識の場合に、それをいわゆる探偵と犯人の関係と言って良いものやら。「ぼく」は零崎人識の犯した事件にたいして、意識的に首を突っ込まない。零崎の事件の解決に乗り出すのは、前作の終わりに登場した名探偵「哀川潤 (アイカワジュン) 」であり、「ぼく」は零崎 (の事件) にたいして探偵として振る舞っていない。

このあたりをどう捉えるべきか悩んでいて、「ぼく」は零崎の事件を解決することを放棄していても、零崎の、殺人にたいしての思考や殺人の動機については質問 (ある意味尋問) しているから、完全に探偵としての役割を果たしてしていない訳でもない。うーん。なにか意見があったら聞いてみたいところです。

ところで、『クビシメロマンチスト』で「ぼく」は、複数の事件の殺人犯と応答しています。

「ぼく」が探偵として振る舞い解決に乗り出すのは、零崎が起こしている「京都連続通り魔事件みたいなセンセーショナルな」ものではなく「いっちゃ悪いが地味なニュース」として処理されそうな事件で (253ページ) 、「ぼく」は零崎に加えて、その地味な事件の犯人と図らずも応答することとなります。そこでキーのひとつとなるのが〈人殺しを容認できるか〉という問いかけです。

殺人について、「ぼく」は次のように述べています。

 

「いっくんは、人殺しを容認できるのかな?」

「できない」

ぼくは即答した。

「許すだの許さないだの、そういう問題じゃない。許容云々以前なんだよ。それは。人殺しは最悪だ。断言しよう。人を殺したいという気持ちは史上最悪の劣情だ。他人の死を望み祈り願い念じる行為は、どうやっても救いようのない悪意だ。なぜならそれは償えない罪だから。謝罪も贖罪もできない罪悪に、許容も何もへったくれも、そんなことはぼくの知ったことじゃないね。」(『クビシメロマンチスト』、314ページ)

 

最後まで読むと、どうして「ぼく」が零崎の事件には首をつっこまず、「いっちゃ悪いが地味なニュース」として処理されそうなほうに (流されながらも) 首をつっこんだのかが判明します。この主人公は、次第によっては事件をわざと見逃すし隠蔽もするような人間です。そして「ぼく」は↑で〈人殺しを容認できるか〉という問いかけにノーと言っていますが、実際のところ、「ぼく」はある種の殺人に関しては容認とまではいかずとも見逃して、容認できなかったものに関しては探偵として断罪しようとします。その差がなんなのかも、この小説の醍醐味なのかなと思いました。

醍醐味といえば、前作同様、探偵小説以外としても読めるようなつくりにもあるでしょうか。キャラクター小説なんて言い回しもありますね。定義はよくわからないけど、なんとなく使っている言葉です。登場人物のひとり「葵井巫女子 (アオイイミココ) 」の話し方 (とくに比喩の言い回し) はかなりクセがありますが、たとえばそういったものがキャラクター小説の特徴なんでしょうかね。

 

「でもでもでもっ! それでも話も聞かずに断るなんて、いっくん滅茶苦茶だよっ! 《中学二年生にしてバンド結成、ただしメンバー全員ベース》みたいなっ!」(『クビシメロマンチスト』、41ページ)

「うー。《二人の作家の卵、片方は無精卵で片方からは硫黄の匂い》みたいな」(『クビシメロマンチスト』、50ページ)

 

文体に関しては評価するにしても批判するにしても、〈くどい〉という声が多いようですね。↑の文章に出てきた「祈り願い念じる行為」みたいな表現のことでしょうか。『クビキリサイクル』『クビシメロマンチスト』に限って言えば、ダイアローグから深いモノローグへ転落していくような「ぼく」の思考スタイルも、読者に〈くどい〉と思わせている要因なのかもしれません。

「ぼく」と零崎人識の殺人談義 (?) についても取り上げたかったのですが、いまのところ、とくに思いつかなかったので省きました。

 

以上、『クビシメロマンチスト』の感想でした。

 

二回目の感想、何を取り上げようか少し考えて、西尾維新以外を取り上げようかな、とも思いましたが『クビシメロマンチスト』に落ち着きました。せっかくなので戯言シリーズを読もうかと思います。わたしが中学生のとき、学校の図書館で一番借りられているのが西尾維新の作品群でした。一番読まれていた作家だったでしょう。あのときわたしは、一冊も読みませんでした。今更ながら、当時、同性代がどのようなものを読んでいたのか気になって読みはじめましたが、それってどうなんでしょうね。