西尾維新『クビキリサイクル』の感想
絶海の孤島に隠れ棲む財閥令嬢が
“科学・絵画・料理・占術・工学”、
五人の「天才」女性を招待した瞬間、
“孤島×密室×首なし死体”の連鎖がスタートする!
工学の天才美少女、「青色サヴァン」こと玖渚友 (♀) と
「天才」の凶行を“証明終了”できるのか?
新青春エンタの傑作、ここに誕生!
第23回メフィスト賞受賞作。
クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)
- 作者: 西尾維新,take
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/02/07
- メディア: 新書
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西尾維新の小説『クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い』を読みました。
有名な小説だから説明は不要……とも思いましたが、西尾維新初心者な自分用に確認しておく意味も含めて、裏表紙のアオリ文を載せました。
西尾維新の小説を読むのは今回の『クビキリサイクル』がはじめてです。率直な感想は「108円でこの読書体験ならとても満足」
いまは綺麗な文庫版も出ているので、そちらでも良かったのですが、金銭面に余裕があるわけじゃないので、古いバージョンである講談社ノベルス版を中古で買いました。現代作家の場合は、もっとも新しい版を参考にするのが良いみたいですが……お金に余裕があったら文庫版も買ってみます。
さっきの一言感想で十分なんですが、もう少し感想を述べて行こうかと思います。
とりあえず、第一章に相当する「三日目 (1)――サヴァンの群青」の部分を集中的に取り上げてみます。
この島には、今現在、十二人の人間がいる。(『クビキリサイクル』、六〇ページ)
導入部分である「三日目 (1)――サヴァンの群青」では、物語の舞台や登場人物がざっと紹介されています。
「鴉の濡れ羽島」という孤島にある大きな館に、訳ありの男女が集められている。館には、館の主人である「赤神イリア」とその従者(メイド)をしている女性が四人、そして赤神イリアによって集められた各分野の「天才」と称される女性が五人、その付添いの男性二人の計十二人が集まっている。物語の語り手「ぼく」は、工学の天才少女「玖渚友」の付添人として鴉の濡れ羽島に呼ばれており、冒頭の時点で二日間、「ぼく」は鴉の濡れ羽島に滞在している。
「孤島」×「館」×「訳あり男女」というミステリー的な舞台設定を敷くことで、この後に事件が起こることを予告しているんでしょう。
「まだ名乗ってないんじゃないですかね?」ぼくは肩をすくめて、深夜さんの質問に答える。「ぼくはあくまで玖渚友の付属品ですから。オマケに名前なんかいらないでしょう?」(『クビキリサイクル』、二三ページ)
まず気になるのが、語り手である「ぼく」の存在。この「ぼく」には名前がない。というか何者なのかがよくわからない。「氏も素性もわからない」。
赤神イリアとその従者、それに天才女性たちも十分ミステリアスな存在ですが、名前がないというのは個人的には異様な存在に映ります。この、登場人物のなかで唯一名前のない「ぼく」がいわゆる探偵の位置にきている。それがまず特徴として挙げられるんじゃないか。
一応、「ぼく」の経歴らしきものは断片的に出てきますから、「ぼく」は完全に素性を隠しているわけでもなさそうではあります。
神戸出身ヒューストン育ち、京都在住のぼくとはかかわりのできようもないというわけだ。(『クビキリサイクル』、二〇ページ)
プログラム過程は十年で構成されている。ぼくはその六年目、今年の一月に中退した。それで日本に戻ってきて玖渚友と再会し、幸いなことに高校卒業の資格はプログラムの二年目で既にもらっていたので、そのまま京都の鹿鳴館大学に留学生入学を果たしたというわけだ。(『クビキリサイクル』、四二ページ)
「あなたは、AB型ですね?」と言った。
「それも、Rhでマイナス……どうでしょう?」(『クビキリサイクル』、八一ページ)
物語が進む中で、鴉の濡れ羽島にある「事件」が起こります。その「事件」の後、警察権力が鴉の濡れ羽島に介入するのを嫌っている館の主人赤神イリアは、警察の代わりに「哀川潤」なる人物に事件をといてもらおうとします。この「哀川潤」という人物、『クビキリサイクル』のなかでは最終章をのぞいて名前だけの存在です。その前に「事件」が終結してしまうからです。
どうやらイリアさんは、本気でその《哀川さん》を信用しているようだった。だけれど、そんな名探偵みたいな人が、本当に現実にいるのだろうか? (『クビキリサイクル』、二五三ページ)
名前しかない名探偵「哀川潤」と名前のない探偵代理「ぼく」という関係性。その関係性は物語の最後で崩れる。最終章でついに素性を明かした哀川潤によって、「事件」にあるどんでん返しが起こる……。
……とまあ、探偵小説の主人公として読んだときの「ぼく」はこんな感じでしょうか。
探偵小説って門外漢 (別にそれ以外でもド素人ですが) なんで判らないですけど、「ぼく」に名前がないことが気になるのは、『クビキリサイクル』を探偵小説として読もうとしているからなんじゃないかと思っています。
根拠はありませんが、別に探偵小説じゃなかったら「ぼく」に名前がないことは気にならないような、そんな気がします。的外れでしょうか。
スタイルの枠に閉じ込めないと理解できないって脳味噌しか持っていないんだったら仕方ないけれど (『クビキリサイクル』、七二ページ)
そんな脳味噌ですみません。
冗談はさておき、実際のところ、『クビキリサイクル』ってなんか探偵小説として読まなくても構わない気がします。探偵小説らしからぬ要素が過分にあって、そうした要素を主軸にして「ぼく」を見ていったときに、語り手「ぼく」に名前がないことはごく自然に映るんじゃないか。
わたしがこの小説に感じた面白味もまた、探偵小説チックな部分ではありませんでしたし。
たとえば「三日目 (1)――サヴァンの群青」で頻繁に出てくる「天才」という言葉。この『クビキリサイクル』には五人もの天才が出てきます。それが「三日目 (1)――サヴァンの群青」「三日目 (2) ――集合と算数」でほぼ連続してその五人の経歴および「天才」性が紹介されていくわけですから、辟易する人はするでしょうね。
もしこの小説が批判されるとしたらこの「天才」性の説明個所を「知識のひけらかし」つまりスノッブだと評する人がいてもおかしくはないかな、と読んでいる最中に思いましたし、現にそうしたレビューを読んだあとで見つけました。もっともな意見じゃないでしょうか。
そうそう、話が脱線しますが『クビキリサイクル』を評価している人のレビューを読んで思ったことがあって、評価している場合でも (批判している人と) 同じことを、ほんの少し言い換える形で評価しているんだなと思いました。要約するとこんな感じです。
「わたしはこうしたスノッブさや文体の冗語的な部分を〈許容〉できる。だから作品を楽しめた」
その要素を〈許容〉したから評価した。これは『クビキリサイクル』に限らず、小説の感想にはよくあることじゃないでしょうか。評価する人も批判する人も、あんがい見えているものは同じなんじゃなかろうか。そんな脱線でした。
さて『クビキリサイクル』の五人の天才女性たち。
「三日目 (1)――サヴァンの群青」「三日目 (2) ――集合と算数」で彼女たちは自分の分野ごとの「天才」ぶりを披露していく訳ですが、全部読み終わったあと読み返すと、確かに「天才」ぶりを披露しているようでその実、「ぼく」の目の前でそれを証明している訳じゃない人物がいるんですね。
こういうのも書いていくなかで計算していることなんでしょうか。
「三日目 (1)――サヴァンの群青」で過剰に出てくる「天才」という言葉。それから人物。そういったものに何かしら屈折したものを抱えている「ぼく」の存在。それはある種のフェティシズムと言えるかもしれません。いうなれば「天才」フェチ。ある特定の分野において発揮される「天才」性にたいする過剰な関心の表れ。さらにはそうした「天才」性への疑惑。
「天才」を異様に反復することは、「天才」をあらゆる角度から描写することになるのか。それともキャラクター性を生み出すためのものなのか。はたまた異様な反復は「天才」なる人物もしくは言葉への疑いの表れなのか。
いろいろと考えは浮かんできますが、どうにもノータリンなので言葉にならず、今回はこれで打ち切っておきます。